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1902年 「早稲田大学漕艇部、誕生」

 明治35年(1902年)深澤政介ら5〜6人の仲間が浅草橋の貸しボート屋で貸しボートを借りて練習したのが始まりとされる。同年10月2日、東京専門学校が早稲田大学と改称した際、早稲田大学初の正式な体育部が六部認められ(柔道・剣道・弓道・庭球・野球・漕艇)そのうちの一つとなる。


1904年 「初めての艇は文豪・坪内逍遥が命名」
 創部後初めて造った新艇(三艇)の命名は「小説神髄」「当世書生気質」「新修シェークスピヤ全集」を著し「日本近代文学の祖」「早大草創期の三大教授の一人」と称された坪内逍遥博士が行った。その名は「イナヅマ」「韋駄天」「イロス」といい、今なおその艇名は使われ続けている。


1905年 「野球に次ぐ早慶戦・・・第1回『早慶レガッタ』」
 野球の第1回早慶戦が明治36年(1903年)に行われ、早慶両校の対抗意識は次第に強まり、「野球の次はボートだ」との声があがるようになった。野球に次ぐ「ボートの早慶戦」開催に意気込む学生に、大学当局は当初開催の援助を渋った。部員20数名は大学事務所に押しかけ「このレースは早大五千の学徒の意気を満天下に昂揚する絶好の機会である」等食い下がり、ついに大学側が折れた。明治38年(1905年)5月8日(その日早大は全学休講となったという)。コースは隅田川の1250m。予想は早稲田劣勢で、スタートは予想通り慶應が飛び出したが、早稲田は言問橋下から並びかけ、逆転。1艇身差で勝利を収めた。土手につめかけた早稲田の学生たちは狂喜し、祝杯に酔って夜遅くまで土手の上を練り歩いたという。そこには艇の名付け親・坪内逍遥博士の姿もあった。
 しかしその後早慶レガッタは、過熱した野球早慶戦の影響で中断。第2回早慶レガッタは昭和5年(1930年)となった。また戦争によっても中断したが、幾多の危機を乗り越えて脈々と続き、平成17年には100周年を迎えた。


1921年 「浅沼稲次郎(大正12年卒)も早大漕艇部で漕いだ」
 社会党を結成し、委員長を務めた浅沼稲次郎は早大漕艇部でオールを握っていた。相撲部の助っ人を務めるほどの怪力の持ち主だったが、在学中は早慶レガッタの中断期にあたっていた。政治家として円熟の昭和35年(1960年)、日比谷公会堂で演説中に右翼の少年・山口二矢の凶刃に倒れた。


1932年 「小説『オリンポスの果実』作者は早大漕艇部でオリンピック
      出場」

 昭和7年、早大エイトはロサンゼルス五輪に出場したが、そのときのメンバーの一人・田中英光(昭和10年卒)は太宰治に私淑、卒業後に作家となり、ロス五輪での経験を基にした小説「オリンポスの果実」で文壇に登場する。作品は名作文学の一つに数えられ、幅広く読まれている。


1944年 「幻の“第16回早慶レガッタ”」
 昭和19年。部員たちにも出征の時が迫っていた。残り少ない時間をいかに過ごすか、あれこれ考えた部員たちの結論は「時の許す限りボートを漕ぐ」だった。4月。いつもなら早慶レガッタの行われる時期だ。慶應の部員達と話をするうちに「レースをやらないか」ということになる。互いに部員の大半は帰郷して入隊準備に入っており、レースどころではない。しかし残った部員たちは「昨年の第15回で公式戦は終わったけれど、部員がいる限りは続けるべきだ。審判、コーチ、観衆がいなくとも選手がいればレースは出来る。
たとえ、それを誰が知らなくとも、自分達だけが知っていれば良いじゃないか。」慶應側も激しく熱し、ついに艇を並べることになった。1250m。早稲田が先にゴールしたが、勝ち負けなど関係ない。ゴールでは早慶互いにヤッタ、ヤッタゾと両手を挙げて健闘を称え合い、両校校歌、応援歌を歌いまくった。喉が涸れても、いつまでも歌いつづけた。すがすがしくも切なく、部員達は隅田川に、そしてボートに一時の(もしくは永遠の)別れを告げたのである(正式の第16回早慶レガッタは終戦後、昭和22年開催となる)。


1947年 「焼け跡で再開した早慶レガッタ」
 日本中が崩壊し放心状態で食糧すらなく、皆が生きることで精一杯。「だからこそ」戦地から生還した部員たちのボート部再建への情熱は一層かきたてられた。木片を拾い集めてバラック小屋の合宿所を建て、焼け残った他大学の艇を譲り受けて練習を再開。そして昭和22年(1947年)早慶レガッタをついに再開する。勝利したのは慶應だったが、第1回大会からの優勝旗も焼失しており、表彰式は賞状だけだった。


1957年 「小学校の教科書に載った『あらしの早慶レガッタ(沈没レー
      ス)』」

 昭和32年5月12日の第26回早慶レガッタ。コンディションは大雨と、春特有の強風に満潮が重なり、大荒れとなった。慶應艇は順調にスタートしたが、早稲田艇は浸水が激しく、コックス島田はこのままでは沈没は免れない、何としても艇を沈めずにゴールしようと決断。前代未聞のことであったが、8人中6人に漕がせ、2人が予め積んでいたお椀で水をかきだし始めた。一方慶應艇は先行したものの、駒形橋の手前でみるみる沈没し、早稲田は6人漕ぎでその横を漕ぎぬけ、そのままゴールした。早稲田は「何としても艇を目的地に着けるのがボートマンシップ」、慶応は「全員が最後までオールを休めず漕ぎぬくのがボートマンシップ」とそれぞれの信念を貫いた結果だった。審判は「ゴールを果たした早稲田の勝利」との裁定を下した。早稲田クルーは「好コンディションの下で再レースを」と慶應側に申し入れたが、慶應クルーは「審判の裁定に従う」として負けを認め、早稲田の勝利となった。この沈没レースは美談となり「あらしのボートレース」として小学6年の国語の教科書にも取りあげられたほか、様々な意味で語り継がれることとなった。


1962年 「野田知祐(昭和37年卒、カヌーイスト・エッセイスト)も早大
      漕艇部」

 現在カヌーイスト・エッセイストとして活躍する野田知祐(昭和37年卒)もえび茶のオールに心血を注ぐ大学生活を送った。


1964年 「東京オリンピック・早大漕艇部から9名が出場」
 戦前のロサンゼルス五輪、ベルリン五輪以来、早大漕艇部からオリンピック選手を輩出していなかったが、東京五輪には4種目に9名を送り込んだ。体格では劣るが、情熱と創意工夫で偉大な体力と技術を身に付けた「えび茶戦士」達の逸話は多く語り継がれる。戦後の第1期黄金時代である。



1965・1966年 「全日本選手権エイト2連覇」
  このとき東京五輪出場者を軸とした早大エイトは国内最強の座に就き、ワセダの黄金時代が続いた。しかし67年以降〜現在に至るまで、準優勝(72年、92年)や、大学選手権に優勝しての大学日本一(96年)はあるものの、真の「エイト国内最強チーム」の座から離れて久しい。


1972年 「早大エイト、全日本選手権で準優勝」
  熊田時久主将(昭和48年卒)率いる早大エイトは最強の呼び声高かったが、決勝では世界選手権代表を中心とする社会人チームの東レ滋賀に惜敗。66年以来の全日本選手権エイト制覇を逃す。




1976年 「モントリオール五輪エイトに金康が出場」
  金康健司(昭和52年卒)が東京五輪以来の日本代表としてエイトで出場。


1978年 「早慶レガッタが聖地・隅田川へ回帰」
  隅田川とは東京を象徴する風景の一つであると同時に、早慶のボートマンにとっての「聖地」である。第1回(明治38年)隅田川で早慶レガッタを行って以来、早慶レガッタは例外こそあれ原則、隅田川で行うものだった。ところが川の汚染、護岸工事、地下鉄工事等で昭和37年(1962年)以降16年間、早慶レガッタは隅田川を離れ、戸田コースや荒川で行われていた。それがこの年・昭和53年(1978年)から再び「聖地」に早慶レガッタが帰ってきた。以降現在に至るまで、毎年隅田川で開催されている。余談だが隅田川にかかる橋はボートレースが可能なように、橋げたの間隔が最低でも35m(ボート2杯がならんで通過可能)あいている。これは早慶両校ボート関係者が東京都に申し入れた結果、実現しているものである。


1982年 「早大エイト、日本最高記録樹立」
  日本ボート界では、エイトの2000mのタイムは「6分の壁」といわれ、それを破ったのは1960年、東北大学がローマオリンピック予選で出した「5分59秒6」のみだった。8月26日、大学選手権予選で長畑芳仁主将(昭和58年卒)率いる早大クルーは「5分56秒92」を記録、22年ぶりに日本最高記録を更新した。しかし全日本選手権エイト決勝では力を出し切れず3位で、念願の全日本エイト制覇はならなかった。


1986年 「早慶レガッタ対校エイトで『同着レース』」
 4月13日、早慶レガッタ対校エイトはスタートから両艇抜きつ抜かれつの大接戦となり、両艇ぴったり並んだままゴールラインになだれ込んだ。審判の判定は「同着」。早慶レガッタの長い歴史の中で唯一の「同着」レースとなった。


1988年 「ソウル五輪エイトCOXに石川が出場」
 石川順康(平成元年卒)がモントリオール五輪以来の日本代表(エイト舵手)として出場。


1988・1989年 「全日本軽量級エイト2年連続優勝」
  「漕手の平均体重70kg以下」を前提に競われる全日本軽量級選手権で早大エイトが2年連続優勝。





1992年 「バルセロナ五輪エイトに岩畔・山児が出場(13位)」
岩畔道徳(平成元年卒)、山児和久(平成5年卒)が出場、13位となる。


1992年 「早大エイト、全日本選手権で準優勝」
  バルセロナ五輪出場の主将・山児和久(平成5年卒)を擁するものの、クルーの8人中5人は大学からボートを始めた選手だった。高校からのボートエリート揃いの日大、中大や、社会人王者のNTT東京を相手とする決勝レース、500m6位(最下位)で通過したが、そこから鬼気迫るごぼう抜きを演じた。ゴールでは王者・NTT東京に僅差で、学生中最高の2位。タイムは5分51秒65で、当時学生の出したエイトのタイムとしては驚異的であった。主将の山児は卒業後、社会人チームの東レ滋賀を率い93年、94年と全日本選手権エイトを連覇。


1994年 「女子に“渋田時代”到来」
渋田紀子(平成7年卒)は全日本女子選手権ダブルスカルで2年連続優勝、全日本選手権女子シングルスカルで2年連続優勝。圧倒的な強さで一時代を築く。卒業後も社会人(昭和シェル石油)で競技を続けアトランタ五輪に出場。


1994年 「早大エイト、海外レースで
      初優勝」

  海外遠征としてオーストラリア・メルボルンで開かれた「メルボルンヘンレーレガッタ」に出場。 「インタミディエイト」(中級)クラスに出場した早大エイトは現地クルーを次々と撃破、創部以来初の海外レース初優勝。翌日、現地の新聞に「小柄だが技術は素晴らしい東洋のクルー」と賞される。


1996年 「アトランタ五輪に現役・OB・
      OGの3名出場」

  岩畔道徳(平成元年卒)、渋田紀子(平成7年卒)、吉田理子(平成11年卒・当時2年生)が出場。




1996年 「早大エイト、悲願の大学日
      本一」


  8月25日の大学選手権エイト決勝で、早大エイトは、この年の全日本選手権エイトの覇者であり社会人を含め国内無敗を誇る中央大学エイトにスタートからリードを奪い、ゴールでは約3秒差をつけ悲願の優勝。その他、男子舵なしフォア、男子舵つきペア、女子ダブルスカルも優勝し、大学選手権男女総合優勝。












1997年 「大学選手権・男女総合2連覇」
男子舵なしフォア、女子ダブルスカル、女子シングルスカルの3種目で優勝し、昨年に続く男女総合優勝。しかし連覇の期待されたエイトは5位に終わる。


2000年 「シドニー五輪に女子現役・OGの2名出場」
吉田理子(平成11年卒)、岩本亜希子(平成13年卒・当時4年生)が出場。


2002年 「創部100周年を男子エイト大学日本一で飾れず」
  創部100周年の年を1996年以来の男子エイト大学日本一で飾るべく、2001年に岩畔道徳監督(平成元年卒)を迎えて臨んだが、結果は惜しくも準優勝。節目の年での覇権奪回はならなかった。




2004年 「アテネ五輪に岩本が出場」
女子軽量ダブルスカルに岩本亜希子(平成13年卒)が前回のシドニーに続いて出場。


2003・2004・2005年 「女子部が3年連続2種目で
              日本一」

  女子部では全日本選手権の女子舵手つきクオドルプル、女子ダブルで3年連続2種目優勝。いずれも並み居る強豪社会人チームを下してのものであり、価値ある歴史的快挙。










2005年 「世界選手権に現役5名・OB2名・OG1名の8名出場」
アジアでの初開催となる世界選手権の日本代表に早大関係者が8名選出。
学生   熊倉美咲、藤元江里、諏訪倉一、堀端彩子、玉川由紀
OB   小川隆之(平成10年卒)、岡本和祥(平成17年卒)
OG   岩本亜希子(平成13年卒)

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